「性悪説」という言葉をご存知ですか?言葉自体は聞いたことがあるけど、どういう意味かは知らないという人も多いかと思います。
今回は、性悪説の意味や誤解されがちなところ、また性悪説の利点や欠点について紹介していきます。
性悪説について少しでも興味がある人は、ぜひ参考にしてみてくださいね!
性悪説とは
「性悪説」とは、まず「せいあくせつ」と読みます。
性悪説の「性悪」は「しょうわる」と読むこともできるため「しょうわるせつ」と混同してしまわないように注意しましょう。
また、性悪説とは「人は本来弱い存在であり努力で善を獲得できる」という意味があります。
一見「悪」という言葉が入っているため「悪いこと」という風に誤解されてしまいがちですが、性悪説における悪は「弱い」を意味する言葉なのです。
ちなみに、ネガティブなニュアンスで使われるのではなく、どちらかというとポジティブなニュアンスで使われる言葉となっています。
それでは、ここからは性悪説について、もっと詳しく解説をしていきます!
思想家の荀子が提唱
性悪説とは日本で生まれた言葉ではなく、戦国時代の末期に活躍した儒教の思想家である「荀子」が提唱しました。
荀子の著作をまとめた書物である「荀子」で「人之性悪、其善者偽也。」と説かれていました。
要するに「人は本来弱い存在であり努力で善を獲得できる」ということになります。
「人間とは本来弱い存在であるが、自分の意志で努力することによって善を得ることができる」といったニュアンスになります。
このように、性悪説では人任せにしたり、誰かに頼ってばかりでいるのではなく「自らが主体となって努力する」ということが、主張されているように感じられます。
人は本来弱い存在であり努力で善を獲得できる
性悪説には「人は本来弱い存在であり努力で善を獲得できる」という意味があります。
ちなみに「性」には生まれ持った人の本質という意味があり、「悪」には弱いという意味があります。
性悪説には、一見ネガティブなイメージを抱く人が多いかもしれませんが「人は本来弱い存在であり努力で善を獲得できる」という意味を表現しているので、非常にポジティブな意味があるといえるでしょう。
また、もし社会で性悪説が説かれた場合は「人は未熟である。だからこそ、いろいろな本質も持った人たちが共存する世界で、みんなが幸せに生きるためにはどうすればいいのかを一生懸命に考えるようになるだろう」と、性悪説に基づいた方が心地の良い社会になるのではないかとされています。
性悪説における「悪」とは
ここまで、性悪説の意味について解説してきましたが、少しでも理解を深めていただければ嬉しいです。
性悪説はしょうわるせつと読まれてしまいがちですが、実際は「せいあくせつ」と読みます。
また「悪」という言葉が入っているため、ネガティブなイメージを持ってしまう人が多いかもしれませんが、実際は「人間とは本来弱い存在であるが、自分の意志で努力することによって善を得ることができる」といったニュアンスで使われるため、どちらかというとポジティブな意味の言葉になります。
それでは、ここからは、性悪説における「悪」について詳しく解説していきます!
快楽や煩悩に流されやすい弱さ
先ほども解説したように、性悪説における「悪」は「悪いこと」という意味ではなく「弱い」という意味になります。
また、弱いといってもなにに対して弱いのかというと、まずは「快楽や煩悩に流されやすい弱さ」を指しています。
ちなみに「快楽」とは欲望が満たされたときの満足感を意味する言葉であり、「煩悩」とは仏教において人を苦しめる煩わしい心を意味する言葉です。
たとえば「お寿司が食べたい」とか「楽してお金を稼ぎたい」など、これらの欲望を煩悩といい、これを叶えた先の満足感を快楽といいます。
要するに、人とは「快楽や煩悩に忠実な生き物」であるため、快楽や煩悩に流されやすい弱さこそ、性悪説における「悪」の一つとされているのです。
利己的になりやすい弱さ
性悪説における「悪」は「利己的になりやすい弱さ」のことも指しています。
ちなみに「利己的」とは、他人の損得に関しては一切興味がなく、自分の利益のみを追い求めることです。
たとえば「友達と好きな人が被ってしまったときに、自分だけが幸せになるべく、その好きな人に友達のダメな情報をたくさん流して嫌われるように仕向けた」といったニュアンスのことが、まさに利己的といえます。
人は知らず知らずのうちに、自分の利益に敏感になってしまいます。
そして、自分の利益のみを追い求めているうちに周りが見えなくなってしまい、そのうち誰かに迷惑をかけてしまうこともあるのです。
そういった、利己的になりやすい弱さこそ「悪」であると、性悪説にて説いているわけなのです。
他人を憎んでしまう弱さ
性悪説における「悪」は「他人を憎んでしまう弱さ」のことも指しています。
つい、自分と他人を比べて「どうしてあの人にはあるのに私にはないの?」と、他人を憎んでしまったことはありませんか?
基本的に人は、自分と他人を比べる際に、自分の短所にばかり注目してしまいます。
そのため「あの人は私よりも恵まれている」と勘違いをしてしまいやすいのです。
また、他人を憎むことで、立ち向かわなければいけない問題から逃げているということも考えられます。
要するに、人は知らず知らずのうちに他人を憎んでしまうことがあるのです。
まさに、その弱さこそが性悪説の「悪」ということになります。
悪事や犯罪のことではない
性悪説における「悪」は弱いという意味の言葉なので、悪事や犯罪のことではありません。
「性悪説」をパッと見たとき、意味を知らない人であれば「悪い意味の言葉なのかな?」と思ってしまうかもしれません。
ですが、性悪説とは「人は本来弱い存在であり努力で善を獲得できる」という意味の、非常にポジティブな言葉なので、悪事や犯罪に関して使われるネガティブな意味の言葉ではないのです。
「悪」という言葉が入っているからこそ勘違いされやすい部分もありますが、使う際には間違ってしまわないように注意しましょう。
性悪説と性善説
ここまで、性悪説における「悪」について解説してきました。
一見「悪」という言葉が入っていることもあり、悪事や犯罪のことを指す言葉だと勘違いされてしまいがちですが、性悪説における「悪」とは人の弱さを意味しています。
「快楽や煩悩に流されやすい弱さ」や「利己的になりやすい弱さ」、さらには「他人を憎んでしまう弱さ」と、人は生きる中であらゆる弱さと向き合っていく必要があるのです。
また、それらの弱さを持っていても、努力をすることで善を得られるというのが「性悪説」というわけです。
それでは、ここからは「性悪説」と「性善説」の使い分け方について解説していきます!
性善説は孟子が提唱
「性悪説」と混同されがちな「性善説」ですが、こちらは戦国時代に活躍した中国の哲学者である孟子が提唱しました。
性善説とは「人間は本来善であり努力で立派な人間になれる」という意味の言葉になります。
要するに「人間とは本来、道徳的に正しい本質を持っているため、努力を怠らなければ立派な人間になれる」というニュアンスです。
そのため「性悪説」と「性善説」は、どちらも「人間は一生懸命に努力をすれば立派な人間になれる」ということを説いていることになります。